たびのおとも

愛知県知多半島を一周する約194kmの巡礼「知多四国八十八ヵ所めぐり」ガイド

知多四国霊場のはじまり

 夢枕でのお告げ

 

さかのぼること文化6年(1809)3月17日。妙楽寺・亮山阿闍梨の夢枕に立った弘法大師のお告げから始まります。

 

「知多は我が悲願の宿縁の地。いよいよ開創すべき時運が来た。亮山よ、2人の道僧とともに衆生結縁の門を開け」

 

阿闍梨が目を開き大師の立っていた場所を見ると、そこには四国八十八ヵ所霊場の砂が残されていました。砂を手にした阿闍梨が発願を決意します。

 

大師の心にふれる旅

 

お告げがあった翌日、阿闍梨はさっそく四国巡礼の旅へ。大師が修行した土地で大師の心にふれる旅でした。

 

そして、ここで一夜の宿を借りた武田安兵衛が、のちに協力者となります。

 

知多半島へ戻ってからの阿闍梨は、方々の寺院へ札所のお願いまわりましたが、引き受け手は一向に見つかりませんでした。当時、知多半島には300以上の寺院があったものの、大師を開祖とする真言宗の寺院は30余り。大師像の安置を他宗の寺院へ願い出ているのだから無理もないことでした。

 

1人から3人へ

 

難航のまま10年におよぶ歳月を見送ったとき、阿闍梨はようやく夢のお告げにあった六十六部行者の岡戸半蔵と、いつか四国で宿を借りた武士の武田安兵衛に出会います。

 

阿闍梨のこころざしに感銘を受けた半蔵は私財を投げうって安置仏をつくり、安兵衛は四国八十八ヵ所霊場のお砂を持参して協力。3人が同じこころざしを持ってからというもの、次々と札所が決まり、大師像が安置されていきました。

 

そして夢のお告げから16年目の文政7年(1824)、ついに八十八ヵ所の札所が揃い、知多四国霊場の開創へ――。

 

現在では毎年多くのお遍路さんが訪れる霊場となりました。

 

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妙楽寺(79番札所)でお遍路さんを迎える亮山阿闍梨

 

◎亮山阿闍梨

安永元年(1772)尾張国生まれ。35歳のとき妙楽寺(79番札所)に移住。37歳から知多四国霊場開創に尽力の末、16年後に全山開創を遂げる。76歳で入寂。

 

◎岡戸半蔵

宝暦2年(1752)尾張国生まれ。はやり病で妻子を失い六十六部行者に。68歳のとき阿闍梨に出会う。誓海寺禅林堂(番外 開山所)において73歳で没す。

 

 ◎武田安兵衛

天明8年(1788)讃岐国生まれ。水戸の藩士。藩主とともに移った高松で阿闍梨に出会い、霊場開創をこころざす。葦航寺(番外 開山所)において38歳で没す。